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近江、いまの滋賀県の東部、鈴鹿山脈の西麓は昔、朝鮮半島からの渡来人が多く住んだところで、彼らの高い技術で土地を開拓し、この湖東三山といわれる天台宗の名刹、南から百済寺、金剛輪寺、西明寺の建立にも関わったと言われている。

私は個人的には百済寺の近くにある永願寺が好きだ。とくに永願寺の紅葉は他の寺院よりも色が深く華やかな感じがする。

でも本当は、紅葉はどうしても好きになれない。あの紅の色がどこか血の色を連想させるし、いまでも楓の葉の形が不気味に思える。

この季節、どこの寺もすごい人で、紅葉と人を交互に見るとでもいうほどで、「紅葉を見るのだ」という覚悟がいる。日本人がこれほどまでに紅葉が好きなのか。ひょっとしたら人生の最晩年に入る前の一瞬の輝きに魅せられるのだろうか。

いま私は芭蕉の晩年の大作「奥の細道」を取材してまわっているが、そのころの人たちは一日四十キロメートル近く歩いていたという。草鞋で歩くことで、つねに自然を共有していたということに気づかされた。

芭蕉は西行のように庵を持たず、つねに時の外で生き続けた孤独感がにじみ出ている。日本人はこの紅葉の先に必ずくる死の孤独を忘れようと、一瞬の華やかさである紅葉をめでるのかもしれない。

私は永願寺の撮影を終えて、お昼を食べに行こうと川向こうを歩いていると、古い割烹旅館が少し距離を置いて三軒並んでいた。二軒目の古い門構えの“霜錦館”と書かれた店に入った。店内はお昼で混んでいたが、二階には空席があった。ちょうど座った窓際に二本のいかにも老木といった、紅葉した木が見えた。この二本の木を見るだけでも、この旅館がいかに老舗であるかがわかる。

この老木について女将さんに話を聞こうと思った。少し待っていると、ニコニコしながら「この紅葉は、百七十年は経っているでしょう。私はいま七十九歳ですが、ここにお嫁にきたときは、すでに立派な木でしたから」と言われた。幹に艶はなかったが赤い葉は若い木に負けないほど色が濃く、生き生きとして見えた。

そこには能でいう“厳に花が咲けるがごとし”のように老いの見事な華やぎもあったし、いい歳のとり方をした味のある老人の姿と重なった。

写真:永願寺の紅葉
初出:「キヤノンサークル」2004年11月号