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旅先で「住んでみたいところはどこですか」と、よく聞かれる。そんなとき、即座に「岡山の牛窓がいいですね」と答えてしまう。日本には珍しく、四季を通して暖かくとても穏やか。まるでギリシャの島々を思い出させるような瀬戸内の小さな島である。

じつは最初にこの島を訪れたのは、十数年前に雑誌の仕事でイラストレーターの安西水丸氏といっしょに訪ねたときだ。そのとき、自転車で島を一周したのだが、ゆるやかな坂道が多く、ときどき青々としたキャベツ畑の向こうに海が見え、乾いた風が気持ちよくペダルを踏ませた。

島には看板が少なく、高い建物もなければ、走っている車も少ない。

ここでは風景と人が主役である。

東京での日々の生活のなかで、ふと空を見上げると、騒音と巨大なビルに囲まれた自分が小人のように見え、自分の息づかいさえ聞こえなくなるときがある。

当然、そこに立っている実感さえまったくない。

若者にとっては、それも活気につながることではあろうが、人はある年齢を超えると、何でもない場所での日々が快適になる。だが、いまは日本各地どこを訪ねても、見せるということを前提にして街がつくられ、そして潤ってもいるようだ。そうしたほうが人は住みやすいのかもしれない。

自然の景色だけで何もないというのは、逆の見方をすれば住む人にはそれなりの覚悟もいる。自分が風景に寄り添って生活するということは、とても厳しく、勇気のいることなのかもしれない。

私たちが訪ねたとき、運良くこの島の「だんじり祭り」に出合えた。

趣のある提灯、竹笹、太鼓、それに木彫りの人形などを取りつけた、昭和初期の木船をかたどった屋台が出る。子供たちの「ハイハイ」という掛け声とともに、ゆっくりゆっくり大人たちが長い綱を引き、練り歩いていた。素朴でほのぼのとした感じが、この島にふさわしいと思えた。

遠くに目をやると、波ひとつない海に浮かぶ小さなポンポン船で、釣りをしてる人たちが点のように見える。暖かな午後がそこにあった。

あれから何回かこの島を訪ねているが、十数年とまったく変わっていなかったし、その日もいつものように、空にぽっかりと切り抜いたような雲が浮いていた。

写真:岡山県勝山町/神庭の滝
初出:「キヤノンサークル」2004年5月号