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那智の滝の上を鳥が飛んでいる。それは日ごろ気にもとめずに見ている風景かもしれないが、なぜいまその鳥が滝の上をいたのかと考え始めると、この光景が私のなかで、何か神秘な因縁に結びついていく。

私たちはよく“時は過ぎていく”と言うが、自然のほうから見れば、私たちが勝手に過ぎてゆくだけのことなのであって、自然自体は少しも変わらない。

この那智の滝も、ここにこうして数百年も同じ姿でこの世を見てきた。

大自然にはその移りゆきに、眼に見える絶対の秩序があるが、私たちは長い年月、それに逆らって生きることをよしとしてきたと思う。その結果がかどうかはわからないが、世界的な異常気象や水害や水枯れなど、自然のほうから激しい報復を受けているのが現状だろう。

那智の火祭り、それはすごいの一言だった。男衆の持つ直径一メートル、重さ五十キロ以上もある大松明が眼前で燃えあがり、時々撮影している私のほうにも火の粉が飛んでくる。

私は那智の大滝に向かう、長い長い石段の途中にある、報道席と書かれた仮設場の上にいた。大松明を持った男衆がその重さのために石段の途中で、私のほうに傾いて倒れそうになってきたが、そのたびに私は必死にその大松明を避けるのに一生懸命で、つい写真を撮る余裕がなかった。

私の両方の頬は、真っ赤になってマッチをつければ燃えそうだった。そんなこともあって私は隣の記者のほうに何回か倒れ込んでしまった。それほど迫力のある光景だった。

五十キロ以上もある大松明を背負い、しかも走るのだから若衆といえども、よほど日ごろの鍛錬がなされていないとできないだろう。人の見えないところでの日ごろの訓練が、この人たちを支えているのだろう。

この火祭りは、かつて日本列島に住みついた人々が、山も樹も風もすべての“可畏きもの”をカミと考え、献上した祭りだそうだ。

この撮影している位置からちょうど、那智の滝が自分の眼線と同じ高さに見えた。日本の滝の代名詞にさえなっているこの滝は、確かに美しい姿からも魅せられるものがある。遠くから見ていても、見えない霊威さえ感じ、思わず私は合掌していた。

写真:和歌山県那智勝浦町/那智の大滝
初出:「キヤノンサークル」2004年10月号