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私の生まれた高山の四月は櫻が咲くころ、もうひとつの楽しみがあった。それは高山の祭りが催されることだった。子供のころ、この四月がもっとも待ち遠しく、それはふだん着られない新しい洋服と、いつもとは違うおいしいごちそうが並ぶことだった。

四月に撮影に出向くと櫻を撮る機会が多いのだが、じつは私にとって、櫻の一瞬の優雅さを撮ることがもっとも難しい。

一目千本といういうように、一輪一枝よりもたくさん集まった姿が櫻の本来の美しさなのだろう。しかし微かな風にも散る、はかなく淡い色の櫻の花びらたちが美しい。それを撮ろうととすると、ほかの花を撮るときよりも、自分のなかに数倍もの讃える心がないと、なかなか写ってこないから不思議だ。

ここ数年、芭蕉の「奥の細道」の写真を撮っているが、夕方になっても撮りきれないときは、場所へのあせりのような気持ちが写真に乗り移ってしまうこともある。

先人たちが修行もかねる旅を続けたのは、きっと風景を見るその雄大さとはかなさに感動すると同時に、何か深い哀しみに似た思いがわいてきたからだろう。

ひとりの旅人として、できれば自分も風景の一部にとけ込みたいと願う気持ちが、心を素直にも無欲にもして、長い旅が続けられたのかもしれない。

都会を離れて、奥深い何気ない村里で見る一本の櫻は、観光名所で見る櫻とは違う、楚々とした風情と真の美しさを感じる。名所で見る櫻は、たしかに華やかさは格別だが、観られることを前提にして咲かされている気がしてならない。

写真にして実際のネガを見たときにもそのことを強く感じる。観光名所の櫻は申し分なく華やかで美しいのだが、何かが物足りないといつも思ってしまう。櫻の華やかさの向こうにある哀しみも感じさせる櫻たちは、ひょっとしたら、私たちはふだん見かけることもない、名もないところに咲いているのかもしれない。

西行という人が櫻をこよなく愛し続けたのも、櫻の木のように一途に潔く生きたいと願っていた心だろう。

「分きて見む老木は花もあはれなり。いまいくたびか春に逢うべき」と、西行は詠んでいる。

写真:飯田市/下久堅の「三石の櫻」
初出:「キヤノンサークル」2004年4月号