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秋も深まった十月二十六日、久し振りに高山に二泊した。高山の秋はもう冬に近く、街を歩いていても風が体の中にしみこむようだ。

この高山で数十年常宿にしている旅館がある。それは街の真ん中を流れている宮川の川沿いにあり、いつもサクサクとリズムのいい水の流れる音が気持ちをなごませてくれる。

早朝、川の向こう側には朝市の観光客が見える。この季節はとくに多く、ここ数年は外国人が目立ってきた。高山の静けさは、名古屋からでも列車で二時間もかかり閉ざされていることから他県からの移住も少なく、情緒が守られているからだろう。

少年の頃、私は叱られると高山城跡の城山に行った。ここにいると街が一望でき、宮川に沿って眼を上げると、そこに小さな自分の家を見つけることができ、ほっとしたものだ。

そして自分の将来のことなど子供心に考えていた。

あの小津安二郎の映画「東京物語」のなかで笠智衆、東山千栄子を誘って原節子が銀座を案内する。デパートの屋上から二人に彼女の住んでいる家の方角を指さすシーンがあるのだが、このシーンを見るたびに、私は高山での少年の頃の思い出がよみがえる。

というのも、私は四歳のときに神岡鉱山で技師だった父を事故で亡くし、いままで住んでいた家も手放し母と二人、母の姉の家に同居することになった。狭い家にふたつの家族が住むということは、いま思えば母の姉も経済的にも気遣いの点でも、とてもたいへんだっただろうと、この年になってありがたいことと感謝の思いである。

母も当時若かっただけに好きな人がいて、そのことで中学一年生の私と言い合いになった。寒い冬の雪の上に母を投げ倒したことがある。

そのときの母の悲しげな泣き顔が妙にピカソの「泣く女」の顔に似ていたことをいまでも覚えている。

それは私がそれまで聞いたことのないような声で、顔がくしゃくしゃになるまで泣き続けていた。

そんな母の年をはるかに超えてしまったいまの私だが、旅などで疲労困ぱいしたときなど、そっと私の背中を支えてくれるのもこの母なのである。