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見つめていると風景が応えてくれる

立松:日本の風景は、どこに行っても同じで、面白くないですよね。鉄道で旅をしていて、ふと目を覚まして外の風景を見ても、自分がいまどのあたりにいるのか、さっぱりわからない。どこも同じような風景が延々と続いている。地方の特色が失われ、均質化した風景がどこまでも広がっている。日本はいつの間にかそういう国になってしまったんですね。お店はどこでもチェーン店、大量生産、大量消費。町並みもどこに行っても同じ。
この前、「立松和平 日本を歩く」(全7巻、勉誠出版刊)*6という本を出したばかりなのですが、この本の取材のために全国を旅しました。つくづく、日本という国はよくもまあ同じような風景をつくり出したなと思いました。悲しい気持ちになりました。だから稲越さんが撮ったような、風土とともに生き、大地に寝ころんで、自然と戯れて生きている、そういう光景を見ることが、だんだん少なくなっていきました。

稲越:建物と人間の均質化は、とても残念なことですよね。人間と、人間がつくり出した風景は変わってしまったかもしれませんが、ただ日本の風景そのものには、まだまだ感動させられるところがあります。「風景に寄り添って生きる」ということが大切なのだと思いますね。
新幹線や航空機が発達して、移動しながら風景の変化を楽しむ…などということがなくなりつつあります。もっと風景を見てあげないといけない。しっかり見てあげることによって、風景のほうも生き生きしてくるんですよ。そういう目の訓練、心の訓練をする感性が希薄になってきていることを感じますね。
生活自体が便利になる、快適になる。旅も同様に手軽に、快適になる。なればなるほど、失われていくものもあると思います。私は飛騨・高山の生まれなのですが、たまに故郷に帰ることがありますが、高山っていうのは、いまでも交通は不便なんですよ。東京からだとまず名古屋まで行って、そこから高山本線に乗り換えます。さらにまた相当時間がかかる。でも、そうやってゆっくり時間をかけて移動していくうちに、昔のことを思い出していきます。故郷に帰るという気持ちが高揚していくのを感じるんですね。

立松:じつは明日、植林活動のために足尾に行くんですよ。足尾というのは、また不便なところでね。不便はたいへんですよ。でも、いろんな「時間」が流れていることが大切なんじゃないかと思いますね。
中国でもね、上海なんかはビジネス都市というか、ものすごく近代的ですけれども、シルクロードのような地域は、自然も人間も昔と変わらないわけですね。その両方の時間が流れているということが、豊かさなのではないかと思いますね。
風景は時とともに変わっていくものだと思います。芭蕉もそうだったと思うんですけれど、写真家・稲越功一には、その変わりゆく風景に身をさらしていってもらいたい。そして、そこから新たな表現を生み出していただきたいと思います。
表現というのは、喜びばかりではありません。悲しみが力になることも、また多いんですよね。稲越さんにはそういう風景のなかにあっても、どんどん写真を撮っていってもらいたいですね。

(了)

目次

*6 「立松和平 日本を歩く」(全7巻、勉誠出版刊)
普通の人々の目線で日本の各地を歩いた立松和平の紀行文全集。編集は黒古一夫氏。旅する作家、立松氏の文学とその背景がよくわかり、また同時に、日本の魅力を教えてくれる貴重な全集である。