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ゲストとのトークをお楽しみいただくこのページ。
第2回目のゲストは、小説家・立松和平さんです。
立松さんに稲越功一の写真展「遠い雲、中國」を ご覧いただいたあと、じっくりと語り合っていただきました。

(この対談は、稲越功一の写真展「遠い雲、中國」(キヤノンギャラリーS)開催期間中に行われたトークイベント(2006年4月11日、キヤノンホールS)の模様を収録しました。)

自分を無にして向き合った中国の風景

立松:写真展「遠い雲、中國」*1を拝見して、これはすごい写真展だなと思いました。拝見したなかで、とくにいいな、と思ったのは、新疆ウイグル自治区の作品。男たちが地面に座ってこちらを見ている写真ですね。あれは見事ですね。

稲越:村の若い衆が馬に乗って、祭りの稽古をしている風景です。その様子を見ている年配者たちなんです。厳しい風土に耐えた、とてもいい顔をしています。

立松:顔と心の中身が同じ人たちなんだな、ということが伝わってくるんですね。都会とは全然違う。

稲越:いままで旅を続けてきて思うことがあります。旅というのは、いろんな意味で過酷なんですけれども。私にとって旅というのは、ひとつの「修行」だと思うんです。

立松:「行」ですね。

稲越:自分が無になったとき、風景が自然と目に飛び込んでくる。自分が写しているのですが、風景のほうから「写してほしい」と訴えられているような気がしてくるんです。そういう瞬間があります。

立松:なるほど。これもまた印象に残った作品なのですが、分かれ道の写真がありますね。この風景に向き合い、自分の存在を無にしている稲越さんがいるわけですね。

稲越:ここには、ある種の「人生の分かれ道」のようなものが現れているのかもしれません。

立松:自分がこれまで歩んできた人生を振り返ってみるような、そういう時間の幅を感じさせてくれる1枚ですよ。これがアスファルトの道路ではなくて、砂利道なんですよね。むき出しの地表が見えている。そこがいいですね。

稲越:中国の奥地でも開発は進んでいて、道路の整備も進んでいます。でも、道というのは本来は「土の道」のことだと思うんですよ。私は以前、松尾芭蕉の「奥の細道」をテーマに撮りました*2。そのときに感じたことは、風景と自分という対比で考えていくと、日本の風景は盆栽のように繊細なものだということ。シルクロードの風景の場合は、太刀打ちできないような大木というか、スケールが大きなものを連想させます。

立松:稲越さんの写真を見て感じたことがありますよ。この写真ですが、奥に大きな山があって、手前に草が生えていて、その草に水滴が付いています。この写真を見ていて不思議な気分になりましてね。風景を美しく撮るのが写真家だと思うのですが、それだけではないものがある写真だと思ったんです。とくに手前の草に水滴がついている。この水滴を入れたところが、稲越さんの世界だと思いました。同時に私は、道元*3のことを思い出しました。道元は、こう言いました。「人が悟りを得るということは、水に月が宿るようなものである」と。月は濡れず、水は破れません。月は広く大きな光なのですが、小さな水滴にも宿ります。たった1滴の水には、大きな月の全も、さらには全宇宙を映しだしている、というんですね。たった1滴の水滴に、すべての宇宙が含まれている。この話のなかの1滴というのは、おそらく我々人間のことだと思います。
稲越さんの写真では、水滴と岩山を組み合わせていらっしゃいますが、岩山は宇宙をイメージしているように感じました。水滴には、巨大な岩山が宿っている。その写真を見た自分の心をのぞき込んでみると、水滴にはあの岩山が写っているような気がしたんですね。水滴が岩山を飲み込んでいる。その水滴がたくさんある。写真の前に立つと、自分がたくさんある水滴のひとつになったような気持ちになります。これは道元の境地に達した写真だなと、思ったんです。

稲越:ありがとうございます。ここはじっさいは何でもない場所なんですよね。普通は見逃してしまう場所なのですが、このときはなぜかそこで足が止まったんです。そしてあの水滴を見たときに、なぜか心が癒されるような気がしました。山そのものは巨大なのですが、ひとつひとつの水滴には、健気さみたいなものを感じました。そんなことを感じながらシャッターを押した1枚だったんです。

立松:やっぱり直感で撮っていらっしゃるんですね。あんなふうに水滴を入れて撮る写真家なんて、稲越さん以外にいないと思いますよ。稲越さんの思いを伝えてくれる作品なんですね。写真の力というものを、しみじみと感じました。

稲越:立松さんのお書きになった「道元という生き方」(春秋社刊)*4という本が、私の最近の愛読書です。拝読しますと、写真家として、非常に感銘を受けるところがあります。実感することは、やはり素直に風景と対峙しないと、写真にならないんだなということ。
自分がふだんから素直に生きていないと、写真にも素直な感動は写りません。撮るとき、その場でだけ、急に素直になるなんてことはできませんからね。自分の生き方がそのまま写真として表現されるんです。
つまり写真を撮るときだけ素直な人間になる、そのときだけウソをつくことはできないんです。そのことが、やっと最近になってわかりました。本当に1日1日、自分が納得のいく時間の過ごし方をすることが大切で、そういった積み重ねの先に自分の写真があるのだと。
私の場合は、風景や人間を撮ることが多いのですが、人間を撮っていても、そういう気持ちは相手に伝わる気がします。自分が素直に相手に心を開くことができれば、相手の心もほどけていく。それは写真に写るものだと思うんです。

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立松和平
1947年栃木県生まれ、早稲田大学政経学部卒業。在学中に「自転車」で早稲田文学新人賞。宇都宮市役所に勤務の後、'79年から文筆活動に専念。'80年「遠雷」で野間文芸新人賞、'97年「毒−風聞・田中正造」で毎日出版文化賞受賞。行動派作家として知られ、近年は自然環境保護問題にも積極的に取り組む。2002年3月、歌舞伎座上演「道元の月」の台本を手がけ、第31回大谷竹次郎賞受賞。
公式ホームページ(http://www.tatematsu-wahei.co.jp/)。

*1 「遠い雲、中國」
2006年4月6日(木)〜5月16日(火)の期間、東京・品川のキヤノンギャラリーSで開催した稲越功一の写真展。20年近くにわたり撮影してきた中国、シルクロードの作品をまとめて展示した。


*2 芭蕉の「奥の細道」をテーマにした作品
稲越功一は2005年、松尾芭蕉生誕360周年記念企画として、作品集『芭蕉の言葉』(佐佐木幸綱共著、淡交社刊)を出版、展覧会『芭蕉の風景』(銀座・和光ホール)を開催した。


*3 道元
1200年〜1253年。鎌倉時代の仏僧。曹洞宗の開祖。


*4 「道元という生き方」(春秋社刊)
立松さんが『寺門興隆』『春秋』『曹洞禅グラフ』などに掲載した道元に関する文章をまとめて単行本化した1冊。道元の思想に触れる入門書としても最適。