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風景に感応する写真家の精神

立松:カメラという機械を通じて伝わってくる何ものか。それを「霊気」というとあやしく聞こえるかもしれないけれど、あやしいものではないんですよ。目には見えないもの、人の精神性が蓄積してくる。そういうものが稲越さんの写真からは感じられました。たとえば先ほどもお話しした分かれ道の風景。あの写真にも霊気を感じます。どれだけの人がこの道を行き交ったのか、そういうものまで写っているように感じます。まあ、見るほうが勝手にそう思っているのかもしれないけれど、そう感じさせるものとは何だろうと考えたとき、それを霊気だと表現しているのですが。目には見えないけれども、たしかにそこにあるんですよね。

稲越:それは私自身も感じることがありますね。分かれ道の写真もそうです。自分が撮影した写真なのに、見るたびに違った印象を受けるのは不思議です。昔読んだ本でも、いま読み返してみると、また違うことを感じることがありますよね。だから1枚の写真でも、何回も、何回も見返すことによって、新たな感動、思いがわき出してくる。そういう写真が撮りたいものだと思いますね。分かれ道の写真を撮ったときは、これまで歩んできた自分の過去も見えるような気がしましたし、「これから先の自分はどうなるのだろう」といった、不安のような感情がありました。その不安な気持ちで、あの分かれ道の前に立ち、写したんです。決して自信に満ちた状態で撮影したわけではないのです。

立松:それがいいんだと思いますよ。私はいま、日本の霊峰、百名山の登山をしているんです。日本の山登りと、ヨーロッパの登山との違いはどこにあるのかというと、ヨーロッパの登山というのは「征服」なんですよ。いっぱい眠って、食べて、体を鍛えて山に挑むわけです。ところが古来から行われてきた日本の登山は、肉を絶ち、へたをすると断食をして登山する。寝ないで行く。わざわざ体を弱らせて登山に向かうのです。なぜかというと、そのほうが神仏と感応できるからなのだそうです。だから決して、高い山に登るのが価値あること、という登山ではないんですね。
稲越さんは、それと同じように、目の前にしている風景に対して感応して撮られているのだなということがわかりました。だから、空はからりと晴れていなくてもいいわけだし、曇り空、雨降りでもいいわけですね。その風景に感応して、霊性を見いだしている。霊性という言葉が適当でないなら、「魂」とか、「心」と言い換えてもいいと思うのですが、そういうものを写真にしてしまうわけですね。それが稲越さんの写真であり、とくにこの分かれ道の写真にはよく表れていると思います。

稲越:山のお話がでましたけれど、ヨーロッパの山は、だいたい直線的なんですね。アジアの山、とくに日本の山は、おだやかな曲線なんですよ。私の撮った中国の山の写真もやはり曲線的なんです。
今回旅したような中国の辺境地域に暮らす人々は、ひと月2000円ぐらいで生活している人たちです。暮らしは楽ではないと思うのですが、おだやかな曲線を描く山々に囲まれて生きている人々は、精神的にものすごく豊かなのではないかと思うんです。そう考えてみると、松尾芭蕉が旅して見ていたのも、やはり曲線の風景だったはずです。そこから生まれた文学が「奥の細道」だった。曲線的な風景は、日本的な情緒の源流だと思います。