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2009年、東京都写真美術館で開催された写真展「心の眼 稲越功一の写真」 の会期中に行われた、特別講演の模様をお伝えします。
本展のキュレーターを務めた金子隆一氏が、稲越功一と親交の深かった写真家 宮崎皓一氏を迎え、稲越功一の写真について、そして彼がファインダー越しに見つめてきた時代について語り合います。

企画のいきさつ/生前最後の展覧会

金子:今回の展覧会の企画は、稲越功一さんが生前、まだバリバリに元気な時にスタートしました。稲越功一さんは多種多彩な、非常に幅広い表現をされてきた方であります。それをコンパクトにまとめるということではなく、稲越功一の本質・神髄はどこにあるのかということを私なりに考え、稲越さんの事務所を訪ねました。そして、「モノクロームのストレートなスナップショットで展覧会を構成したい。シリーズとしては、"Maybe, maybe"、"Meet again"、『記憶都市』、"Ailleurs"、"Out of Season", の中からやりたい」ということを稲越さんに申し上げ、展覧会の準備が始まりました。

そうしたなか、去年(2008年)の12月の段階で稲越さんが入院されているということを知りました。年が明けてから「もう、ちょっと具体的には何も出来ないから、後は宜しく頼む」と電話で言われてしまいました。そうしているうちに、その次は亡くなった、という訃報でした。まさに、あれよあれよ、という間のことでした。

私は今回の展示にあたって、稲越功一さんがご自身でやろうとしていたことをなるべくそのままの形でやりたいと思い、敢えて「積極的に何もやらない」姿勢で展示に臨みました。 位置づけとしては、「稲越功一さんの死後最初の展覧会」ということではなく、「生前最後の展覧会」という位置づけにしたいという目論見でございました。ですので、展示してある写真は、稲越さんが事務所の机の上にプリントを重ねながら、ある程度順番を作っていたものを基本としています。展示方法も、稲越さんが会場を下見に来たとき、「何もない白い壁に、写真が一本、帯のようにあるような、そんな展示にしたいな」ということをおっしゃっていましたので、だだっ広いところに写真の線がつづくような展示となっております。

稲越功一という名の「写像装置」

展覧会の準備中、私は「稲越功一はいったい何を撮ろうとしたのか」という、非常に素朴だけれども根源的なことを考えました。稲越さんと話を進める中、「記憶」というキーワードをよく、私も稲越さんも使っていることに気付きました。その「記憶」とは一体何の記憶なのかということと、稲越さんが何を撮ろうとしたのかということとは繋がっていると思います。一言で言ってしまえば、稲越功一さんは何か「被写体」(人でも風景でも)を撮るということ以上に、「写真そのもの」を撮ろうとしていたのだと思います。「写真」を撮る為にシャッターを切る。目の前にある現実の何かを記録するということではなく、自分自身の心を反映させるといったことでもなく、まさに現実と自分の間に「写真」というものを成立させる為にシャッターを切り続けたのではないだろうか、と思っております。

それは最近の仕事においても、変わらずにずっと貫かれていることではないでしょうか。何をどのように撮ったとしても、それが写真になった時に一体どういう風になるのだろうか、ということに対する興味。それこそ稲越さんがシャッターを切っている最大の理由ではないのかな、と思っております。 そのことを、今日のゲスト宮崎晧一さんにお話ししたところ、「まさにそのことが、自分自身にとっても60年代から70年代にかけて写真を始めてゆく際にとても重要な転換点だった」というお話を伺いました。そういう時代背景の中で、稲越功一さんと宮崎晧一さんとの出会いもあったのではないか、と思っております。

前置きはそんなところで、宮崎さんにマイクをお渡し致したいと思います。

宮崎:金子さんのおっしゃる通り、稲越は「眼前の風景を写真として捉える」というふうに考えて、その通りに行動して来たと思います。 稲越功一は、自らが写像装置の一部となって、そして一枚の写真の為に奉仕するというふうに生きて来たのだ、と思います。だからその時に彼自身は、自分自身の自己表現とか、対象をそのまま写真にストレートに複写してみせようとは思ってなかったと思います。

そこで彼をこう呼んでみたい、「稲越功一という名の写像装置」と。

目次

宮崎 皓一
写真家。稲越功一が写真家として活動を始める以前のデザイナー時代から、四十年来 親交がある。最も古い友人の一人。

金子 隆一
写真評論家、写真史家。東京都写真美術館学芸員。本展覧会「心の眼 稲越功一の写真」のキュレーションを担当。



「Maybe, maybe」より